私が初めてラオスに足を踏み入れたのは、バックパックを背負って初の海外旅行に挑戦した2000年でした。
知り合った年下の先輩旅行者から「初心者はタイを起点に、反時計回りに東南アジアを周るのがいいよ」というアドバイスを受けてのおっかなびっくりの旅行です。
ラオスの情報は今以上に少なく、手探りの状態でしたが、初めての旅で私はすっかり海外に目覚めてしまいます。
それから東南アジアを中心に滞在型の旅を続け、タイ、中国、イスラエルで少し働いたりした後、2008年にラオスに移住することを決めました。
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ラオスに魅了されノープランでの移住を決める
私がラオスに住むことを選んだ理由は非常にシンプルで、「ラオスが好きだから」と「ラオスに住みたいから」だけです。
移住後の「仕事」についてはほとんどノーアイデアの見切り発車のような状態でした。
準備なしで大丈夫という妙な確信
しっかりとした移住計画を立て、就職や住むための物件の調査を進めてから移住するのが一般的なスタイルかもしれません。
けれど私は、旅行者として何度もラオスを訪れ、ゆったりとした時間の流れに身を任せながらのんびりとしたラオス人たちと触れ合ううちに、すっかりラオスに魅せられてしまったのです。
「準備なんてものは不要、出たとこ勝負で大丈夫!」という妙な確信がありました。
生来の能天気な性格と、過去に滞在型の旅行を繰り返した経験から、海外に住むことや海外で収入を得ることに対しての意識的なハードルが低くなっていたのでしょう。
「まぁ、どうにかなるでしょ」の思いが強かったので、呑気に構えていました。
ラオスでの起業の道を選択
漠然と「組織に属して仕事をするのはもういいかな」とは感じていたので、一応の蓄えのために2年間日本で集中して働き、500万円程度の資金を持ってラオスに赴きました。
田舎町の馴染みの宿を仮住まいに選び、2年ぶりの町の様子を見て回ったのですが、現地採用などのかたちで職を得て働いている外国人は皆無です。
これにより、就職はムリだ!と確信したのと、どうせなら一国一城の主になるのも良いだろうとの思いで起業の道を選択しました。
飲食店に決めた理由
ふらっと住み始めた外国人が少ない初期投資で気軽に始められるのは、飲食店か、ゲストハウス等の宿泊施設の二択であることは経験で知っていました。
そこで、「毎日いくばくかの現金収入が得られること」「商売として面白みがあること」「日本の飲食業界で働いた経験が生かせること」の理由から飲食店を選んだのです。
ラオスでの開業準備:店舗準備に約1年
物件探しに苦戦
起業することに決めてまず始めたのは物件探しです。
当時は不動産業者が存在しなかったので大家さんと直接交渉するのですが、旅行者の動線から外れないことを条件にすると、小さな町の中で商業地はさらに小さく、好条件の物件が案外少ないことに驚かされました。
立ちはだかる言葉の壁
しかも、当時の私のラオ語(ラオスの公用語)は絶望的なレベルで、読み書きはもちろん、日常会話すらもおぼつかないほど。
旅行中に身に付けたものすごいブロークンな英語と中国語くらいしかできなかったため、いらぬ苦労も経験しました。
ゆっくりと世間話をするのにはボディーランゲージを駆使して何とかなるのですが、「商談となるとこうも状況が変わるのか」と語学力の大切さを思い知らされます。
もし当時の自分が今の自分の前に現れたら、「計画性が無さ過ぎる!」と懇々と説教したくなるレベルです。
独り身の外国人は不利
町には、2000年以前から既に定住している一部の中国人移民以外には、ラオス人の女性と結婚して商売しながら住んでいる欧米人が4人いるだけです。
ラオス人パートナーを持たずに乗り込んできた外国人は私が最初だったことも、物件についての話が進まない理由のひとつだったことは今になれば分かるのですが、当時は理解できず焦らされました。
大雑把だった賃貸契約
何軒もの物件を見て回り、営業中の店にまで「貸さない?」と声をかけ続けて3ヶ月が経過した頃、現地人の知人がある物件を紹介してくれます。
存在は知っていたものの、お化け屋敷のように荒れ果てているのでスルーしていた物件なのですが、探すのに疲れていたことと、家賃が相場(年間約30~45万円)よりも安い年約24万円であったことから、そこに決めました。
内容がよく分からないままサイン
その辺にあった何かの紙の裏側に手書きで殴り書きしたラオス語の契約書は、何を書いてあるのか全く理解できません。
知人が英語に訳してくれるのですが、訳す方も聞いている方も英語力がないもので、最終的には「ボーペンニャン!(問題ない!)」の知人の言葉を信じて3年分の家賃を前払いし、どうにか物件の契約を終わらせました。
店舗の内装工事を始めたのだが
何とか物件を借りることができ、内装工事を始めようと現地の作業員を探しましたが、工務店的な業者は存在しませんでした。
いわゆる一人親方の作業員が集まって作業している状態で、工事の契約も材料費、工賃を全て含めた責任施工の「受け仕事」ではなく、1日の作業工賃だけで働く「手間仕事」でしかやっていません。
材料も道具もこちらが用意しないと仕事が始まらない状態で、さらに施主は作業員に混じって作業しながら現場を監督する必要があります。
結局、材料は地元の建築資材屋で、工具類や木ネジ類は隣国タイの大型ショッピングモールやホームセンターなどに足を延ばして全部自分で用意しました。
手ぶらで来る作業員
工事を始めてみると、本当に金槌やスケールはもちろん鉛筆1本持たない「完全な手ぶら」で現場に来るのには驚きました。
設備業界で働いた経験もあり簡単な図面なら描けるので、着工前に改装計画の図面を起こし、その図面片手に意気揚々と作業内容や完成イメージを説明しました。
しかし、どうやら彼らは図面を生まれて初めて見たようで、図面が全く意味を成しません。
口頭で説明しながら作業を始めると、今度は電動工具の使い方や、スケールを使った採寸の仕方、真っ直ぐに板を切る方法などを教えながらの作業になってしまいます。
現場には4人の作業員がいるのに、働いているのは1人だけで、10分毎に交代しながら残りの3人は作業を眺めている状態なのです。
全員解雇!自分だけで作業を進める
やっているうちに「職業訓練所じゃないんだけど!」と馬鹿馬鹿しくなり、「あとは自分でやるから、もう来なくていい!」と2日目の作業終了時に宣言し、それ以降は私1人での作業となりました。
自分でやっても良い感じで工事は進み、「こりゃ1ヶ月もすればオープンできるかな?」と思ったのですが、店舗のデザインと施工の同時進行は意外と手間が掛かるものです。
旅行者有志の手伝いなども受けながら6ヶ月の工事期間を経て、2009年9月1日にオープンすることができました。
ラオスでの開業準備:市場調査とメニュー考案
物件探しと同時進行で、市場調査とメニューの考案も始めていました。町の白地図を描き、一軒一軒何を売っている店なのかを調べて回る原始的な調査方法です。
どの店に集客力があり、どんなメニューが人気なのか。そのメニューの内容と値段を書き写し、実食してみて美味しいと感じたものはどうやって作ったかを想像したり、直接尋ねたりしてレシピを練っていきました。
ターゲットは外国人
飲食店を始めるならば、欧米人ターゲットの店にするのが良いだろうと思っていました。しかし、ラオスを訪れる欧米人の客層と、彼らが好むメニュー構成が未知数です。
そのため、準備期間中は毎日、欧米人が集まる店に食事に行くのが日課でした。
当時はまだ小さな町だったので、町中の全ての店舗を一人でチェックすることが可能でしたが、今は町が大きくなってしまったため、同じことはもうやりたくないですね。
日本では飲食店の厨房で働くことが多かったので、食べてみれば大体の調理方法が想像できるのは、メニューを考える上での強みになったと思います。
ラオスでの開業後も難題続出!ビザと営業許可の取得
同じ町で飲食店を営むラオス人経営者たちから、開業後3ヶ月は「お試し期間的にどこの役所からも突っ込みが入らない」という話を聞いていたので、必要な書類も揃えないまま見切り発車的にオープンしました。
ですが、オープン直後に「ビジネスビザとワークパーミットの確認」の名目でツーリストポリスが登場し、最初の摘発を受けます。
ビジネスビザとワークパーミットの取得方法は誰に尋ねても明確な答えが返ってくることはなく、開業後3年間に4回ほど摘発され、そのたびに知人の役人に助けてもらっていました。
さらに摘発を受け法人化へ
2011年に店舗を移転したタイミングで摘発された際、「そこそこ有名店になっているのだし、町中の人間が知っているんだから、もういい加減ちゃんとしろ!」と警察に諭されて法人化することにしました。
法人登録手続きはかなり複雑な上に独特のやり方があり、自力ではムリだ!と感じたので首都ビエンチャンの知人のツテを頼り、手続きを代行してもらいます。
手続き開始から完了までに約8ヶ月かかったのですが、この間は店舗を開けることもできず、いつ呼び出しが掛かるかもしれないので旅行するわけにもいかず、ただもんもんと待つだけの生活に。
2012年8月に登記手続きが完了し、合法的に堂々とリオープンすることができました。
移住4年目でやっと独り立ち
警察関係者も、一度書類確認に来ただけでそれ以降は全く立ち寄らなくなり、ラオス移住4年目にしてようやく完全に独り立ちできたような気がして、本当に心の底から安心して生活できるようになりました。
ラオスで起業して良かったことはとにかくラオスに住めること
「大好きなラオスで暮らしていけること」を目的に起業したので、良かったことやメリットはラオスに住めることに尽きます。
たくさんのお客様に「なぜラオスのこんな田舎の町で商売をするのか?」と問われるのですが、
「金銭的なことだけを考えるのなら日本で商売します。この町が好きでここに住むのが目的なので、この町じゃなければ意味がないんですよ」
と答えています。
私の心をとらえたどこか懐かしい風景
急速に発展が進むラオスですが、仕事の合間に町から少し離れた場所から見える風景は、今でも「昭和の日本」が時空を超えてきたような錯覚を起こさせます。
ため息が出るような懐かしい景色が広がっていて、「ここで暮らしていけたら良いよなぁ」と思いながら毎回2ヶ月半ほど滞在していた当時のままです。
現地の友人や知人達も相変わらず呑気なラオス人の一面を保っていてホッとさせてくれ、私も町の住民として末席に加えてもらえたような気がします。
大切なのは物ではなく暮らし方
物質的に恵まれていないことは「貧しい生活を送っている」ことではなく「シンプルに暮らしている」ことなのだと、ラオスは私に教えてくれました。
短時間で億単位のお金を稼ぐベンチャーの社長にはなれませんが、のんびりとした雰囲気の中で自分のペースで過ごすことや、シンプルな生活スタイルで暮らすことが私には合っているようです。
ラオスは急激な経済成長にともなう激動の時代へ
2009年にSEA Game(サウス・イースト・アジア・ゲーム=東南アジア競技大会)が開催され、中国や韓国からの投資が急速に進み、観光開発も始めたラオスは、今まさに激動の時代に突入しつつあります。
私が移住した田舎町も「中国高速鉄道」沿線の町となるために、少なからず影響が出始めています。
昔から住んでいた中国人移民以外に、鉄道関係の作業員から宿泊施設の経営など観光業に乗り出してきた人まで、2,000~3,000人の新規参入中国人が増えました。
町の郊外に住み始めた人数まで入れると1万人の規模に達するかもしれない勢いです。
まるでバブル期の日本の姿
移住から約2年後に最初の韓国人の男性が1人移り住んで来て「アジア人は弱小派閥だなぁ!」などと言っていたのですが、現在は100人を超える韓国人が住むようになりました。
彼らは本国からどんどん投資を引いてくるので、土地建物が値上がりし、まさに土地バブルに沸いています。
首都圏以外でも地価は急騰しているようで、土地を売ったお金で新しく土地を買い込み転売する「土地転がし」で成り上がったバブル紳士達が高級車を乗り回し、20~30年前のバブル期の日本のような状態になっています。
意外なビジネスチャンスの可能性
とはいえ、忙しすぎる生活に疲れたときには、是非ラオスを訪れてみてください。ラオス人のゆる~い空気感が疲れた気持ちを癒してくれます。
移住を検討中の方にはまず首都ビエンチャンにステイすることをおすすめします。投資が集中するビエンチャンには日本人の求人や雇用も増えてきています。
リタイア後に季節の良い時期だけラオスをベースに生活する人も増え始め、新たなニーズも発生しています。
「攻めの商売」を狙ってラオス視察に訪れる日本人も増えてきているようなので、意外なビジネスチャンスが転がっているかもしれません。
まとめ~海外移住するなら大好きな国が一番
これから海外へ移住することや海外で起業することを考えている人に対し、私は「まず移住先に惚れ込むことが大切!」だと伝えたいです。
今まで色々な国で、たくさんの移住希望者や、移住して起業した人を見てきましたが、住んでいる国が好きになれない人は数年で帰国してしまうようです。せっかく移住するのなら好きな国を選びましょう。
ただし、観光旅行で短期間訪れるのと本格的に生活することは大きく異なるので、試しに数ヶ月から1年くらい暮らしてみるのも良いのではないでしょうか。
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