一般に日本人の間でアメリカの有名都市と言えば、ニューヨークかロス・アンジェルスかと思います。確かにビジネスやエンターテインメントにおいては、この2大都市を抜きにしてアメリカを語れません。
しかし、1492年にコロンブスがたまたまアメリカ大陸を発見したのをきっかけに、イギリス人を筆頭にヨーロッパ人が植民地としてアメリカを占領し始めた場所は、ニューヨークでもロス・アンジェルスでもなく、実はバージニアでした。
ここでは、アメリカの歴史の発端である「バージニア」に焦点をおきながら、あまり日本人に知られていない独立戦争までのアメリカの歴史についてご紹介したいと思います。
Roanoke Island(ロアノーク島)とはどんなところ?
アメリカの地で一番始めにイギリス人が植民地の開拓を試みた場所がロアノーク島と言われ、現在もまだ残っています。
今のバージニア州南東に位置するこの島付近は、現在Outer Banks(アウターバンクス)と呼ばれ、ノース・キャロライナ州に属しています。ただ、その当時エリザベス女王にちなんでバージニアと名付けられました。
その当時、植民地化もまだ確立されていなかったので、イギリス人が開拓地としたこのロアノーク島付近はそう名付けられました。
今は東海岸で有名なビーチリゾート地です。北はカナダのオンタリオ州、そして南はフロリダ州からの車のナンバープレートを見かけるほど、東海岸各地から旅行客が訪れます。
この地域は国立海水公園の区域やライト兄弟が飛行を試みた砂丘もあり、夏場は海水浴場だけでなく、砂丘ハイキング・釣り・サーフィン・ハングライダー・水上スキー等、数え切れないほどのアクティビティを楽しむことができます。
また、遠くには野生のイルカの群れやクジラが見えたり、桟橋からエイの群れが一面に泳いでいるのを見ることもできる自然豊かなところです。我が家でも、頻繁に行くお気に入りスポットです。
Lost Colony(失われた植民地)
アメリカ植民地として確立するまでには、2度の失敗がありました。実際に移住が試みられた1585年にはすでに原住民のインディアンが住んでいました。
初めての植民地開拓は、Ralph Lane(ラルフ・レーン)が率いる集団。イギリスからの食糧が途絶えたことをきっかけにインディアンと諍いになり、酋長を殺してしまいました。こうして初めての植民地計画は失敗に終わりました。
二度目は開拓者John White(ジョン・ホワイト)の集団。植民地化の試みは1587年に行なわれました。
記録によると、ジョン・ホワイトの娘はロアノーク島へ着いてすぐにVirginia Dareという女児を出産。イギリス人の両親の元、植民地で生まれた初めての赤ちゃんだそうです。
ジョン・ホワイトは一度イギリスへ戻り、その3ヶ月後に再びロアノーク島へ戻る予定でしたが、スペインとの戦争で予定が3年後に延期。1590年に島へ着いたときにはイギリス人集団の生活した形跡が無かったのだそうです。
これには幾つかの説あり、その一つは食糧が尽きて、集団は船でイギリスへ帰還しようとして、その途中、海で沈没してしまった可能性。
その他にも地元インディアンにより何らかの事情で誘導され、殺されてしまったか共同生活を余儀なくさせられたかという説もあるようです。
いずれにせよ、ジョン・ホワイトが率いた集団は不思議と消えてしまったことから、このことは歴史上、Lost Colony(失われた植民地)と言われています。
私は何度もこの地域へ行ったことがあるので、イギリス人がなぜこの土地を植民地にしようとしたのか、分かるような気がします。夏は魚介類が豊富なため食べ物に困ることはなく、また冬を除き気候は過ごしやすいです。
それに加え肥沃な土地のため、とうもろこしや豆類などが良く育ち、定住するために向いている場所だったからではないかと思います。
初めてイギリス人が定住したJamestown(ジェームズタウン)
イギリス人が初めて移住して来たところと想像すると、どれほど発展したところかと期待してしまいますが、実際にはひっそりと存在する古き良き歴史タウンです。昔、そこが栄えていたとは思えません。
現在、バージニア州の歴史指定場所として確保されており、今でも400年前の生活が想像できるよう、その跡地の歴史ツアーをすることができます。学校の修学旅行にもよく利用され、次の世代へその歴史が受け継がれています。
アメリカ植民地化の2度の失敗により、植民地先をバージニア州Jamestownへ移行。ここはロアノーク島より車で約2時間ほど走らせた北部です。
1607年にイギリス人男女合わせて150名ほどがジェームズタウンへと移り住んだと言われています。ここが初めてイギリス人の居住となった生活場所というわけです。
ジェームズ川の恩恵を受け、豊富な魚を捕ったり菜園をし生活を少しずつ築いたようです。
その地域以北を支配していたのはPowhatan(ポーハタン民族)。「ポーハタン民族」と言われてもピンと来ないかもしれませんが、ディズニーで映画化された「ポカホンタス」はポーハタン民族でした。
ポーハタンは定住民族でしたので、とうもろこし、豆類、スクワッシュなどの栽培方法も良く知り、イギリス人にもその知識を教えていたようです。多少の論争はあったようですが、ポーハタンとイギリス移住民は良好な関係を築いていました。
移住初めの2〜3年は、ジェームズタウンの作物不足による飢えやマラリアなどの病気のため、生存率が20%ほどとかなり厳しいスタートだったようです。
次第に生活にも慣れ、1616年〜1699年の間はジェームズタウンという村を築き上げるまでに急成長していきました。
ジェームズタウンのすぐ近くにはジェームズ川が流れており、農作業に必要な水が得られるだけではなく、外国との交流を持つ港、そして貿易の場所としても重要な拠点だったようです。
ジェームズタウン歴史跡地へ行くと、ポーハタンが生活していたテント式住居を見てその当時の様子を想像することができます。イギリス人が自分たちの生活を取り入れながら、原住民の生活に馴染もうとする姿が頭に浮かびます。
今の時代、飛行機で数時間単位で移動できますが、その時代は船の移動で何ヶ月も掛けて大西洋を渡り、苦労の末、移住して来たのですから、よほどの覚悟が必要だったと思います。
バージニア植民地の首都Williamsburg(ウィリアムズバーグ)
1689年の終わりにジェームズタウンの建物で火災があり、それに伴いバージニア植民地の首都がジェームズタウンからウィリアムズバーグへと移されました。
なぜウィリアムズバーグだったかと言うと、ジェームズ川ではマラリアで亡くなった方が多かったからです。
このため蚊の多いこの地域からマラリア感染を嫌う傾向が強まり、できるだけ川から離れた場所を求めて、ウィリアムズバーグに落ち着いたようです。
1699年〜1780年までの間、ウィリアムズバーグがバージニア植民地の拠点地となり、政治のみならず、教養と文化の盛んな時代を迎えたのでした。
アメリカでウィリアムズブルグと言えば、Colonial Williamsburg(コロニアル・ウィリアムズバーグ)の野外博物館が有名です。
ここでは、人々がバージニア植民地時代の服装をまとい、あたかもその時代に生きていたように観光客へ語りかけ、その背景を理解してもらおうとしている観光名所です。
いくら有名でも、植民地時代のアメリカの歴史背景を知らずにウィリアムズバーグを訪れては猫に小判です。もしコロニアル・ウィリアムズバーグへ行ってみたいと思うのであれば、必ず植民地時代の歴史の勉強をしてください。
現在のウィリアムズバーグは大学街とも言われ、College of William & Mary(ウィリアム・アンド・メリー大学)が街のすぐ近くに所在しています。
ここはハーバード大学の次に創立された古い大学で、歴史上政治に関わった人が多く通ったと言われています。
初代大統領ジョージ・ワシントンは測量士でしたが、この大学で測量士の資格を取ったそうです。歴代大統領であるトーマス・ジェファーソンやジェームズ・モンロー等もこの大学へ通ったと言われています。
この大学は植民地時代にアメリカの独立運動に関わった政治関係者に大きな影響を与えました。
コロニアル・ウィルズバーグでは、植民地時代の頃の服装や髪型をした人たちが馬車に乗ってその時代の様子を再現して見せてガイドをしてくれます。
また、腰のあたりでキュッと締め、その下がふわっとしたスカートを来ている女性が昔の洗濯板を使い洗濯をしている様子など、その当時の様子をすぐそばで見ることができるのには感動します。
このような人たちは、その時代の知識をたくさん持っているため、どんな些細な質問にも応えてくれます。アメリカの歴史好きには絶好のひとときです。
アメリカ独立戦争の背景
アメリカ大陸で13植民地の代表が独立を願い、団結してイギリスに対し独立宣言をしたのが1776年。それ以前は、アメリカに居住しながらイギリスへ多大な税金を課せられ、不満が募っていました。
アメリカ独立宣言後、フランス軍の力を借りて、何度もイギリス軍と戦争を繰り返していました。戦争はニューヨーク、バージニア、ボストン、ペンシルベニア、サウス・キャロライナ等、各アメリカ植民地で行われていました。
アメリカでは毎年7月4日の独立記念日に国民がそろって独立を祝います。
でも実際には、イギリス政府に独立宣言をしたからといって独立できたのではなく、正式に独立できたのは幾つものイギリスとの戦いを経て、その5年後の1781年のアメリカ独立戦争勝利後、やっとイギリス政府からの独立を獲得できたのです。
数々の戦争があった中、ジョージ・ワシントンの貢献は大きかったようです。
ジョージ・ワシントンはバージニアで生まれ育ちました。元々、曽祖父が教養のあるイギリス家系出身だったようですが、新地アメリカで次々と土地を購入し、奴隷を使いながら農業を営んでいたそうです。
ジョージ・ワシントンはもともと測量士でした。今でこそいろいろな機材がありますが、その当時の測量士は技術と自然・土地に関する知識が必要でした。
測量士としてあまり長い間働くことはなかったそうですが、この技術とバージニアの土地知識が後のワシントン将軍として戦争に欠かせない能力に繋がるとは、その当時は想像しなかったはずです。
ジョージ・ワシントンは20代前半にフランス対インディアン戦争で初めて出兵することになります。
アメリカ独立の決め手となったBattle of Yorktown(ヨークタウンの戦い)
アメリカ独立戦争は、イギリスに対する戦争だけではありませんでした。アメリカ側にはフランスとスペインがつき、イギリス側にはドイツがついた、いわばヨーロッパ強国争いと言えます。
イギリスの勢いが静まれば、フランスとスペインはヨーロッパで自分たちの思う政治ができるからです。
アメリカ軍と特に親密な関係を築いていたフランス軍。そのフランスの知恵と物資を得て、最終的にアメリカ軍がイギリス軍を降伏させる窮地へ追い立てたのが、ヨークタウンの戦いです。
ヨークタウンの戦場へ行く前に、ジョージ・ワシントンはニューヨークに陣を構えており、フランス軍のロシャンボー将軍を説得してニューヨークで戦うことを考えていました。
しかし、経験と実力のあるロッシャンボーは、そのワシントンの計画を何度も拒否。その上、西インド諸島からフランス軍の援助が来るので、バージニアの南部で合流しようとワシントンを説得しました。
なかなかその案を受け入れなかったワシントンですが、フランス軍援助の当人ド・グラス艦隊から直接手紙を受取り、その案に乗じました。
ヨークタウンは、ジェームズタウンの隣町。以前はとても栄えていた場所かもしれませんが、今ではColonial National Historical Park という国立公園の一部として、戦場の跡地が残されている歴史ある戦場です。
そこには、今でもヨークタウンの戦いを彷彿とさせる大砲が展示されており、この戦争がどのくらいの規模で、どのような窮地にイギリス軍が追い込まれたかを想像することができます。建物、堀井、戦争器具が大切に保存されています。
ド・グラス艦隊の援軍があった上、アメリカ軍とフランス軍がニューヨークへ攻め入ると思い込んでいたイギリス軍は、あまり防備を固めていない上に、食糧と軍備も足りなかったことから敗北しました。
しかしツアーガイドの説明によると、究極の理由は「神が私たち(アメリカ軍)に味方をしてくれた。」と思うような嵐が、ヨークタウンとヨーク川を襲ったことが決め手のようです。
ヨークタウンから川を越え、チェサピーク湾のグロウスターという町へ船で逃げようと試みたイギリス軍。
そこからニューヨークへ逃げ切ることもできたかもしれないのですが、この嵐により一瞬にしてイギリス軍は力尽きてしまい、降伏を迫られました。
まとめ
深いアメリカの歴史は、インディアン諸族が先住民だったという以外、記録が定かではありません。
イギリス人が初めて永住を試みたロアノーク島。新しい土地で豊かな生活を求めて移り住んで来た開拓者たちの冒険心と野望は、今でもアメリカ人の心に根強く引き継がれていると思います。
世界で経済・IT・エンターテインメント・科学など新しい分野において最先端を突き進もうとする国、アメリカ。
それは400〜500年前からの歴史で失敗と成功を繰り返した、開拓者の心に常にあった前進しようとする精神ではないかと思います。私は冒険心と野望を持っている人がアメリカの地で成功するタイプなのだと思います。
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