上海で暮らし始めて、早くも10年近くが経過しました。上海に来る前には、台湾に10年、シンガポールに4年、そしてオーストラリアに3年、日系企業にて駐在していました。
海外駐在生活は合計27年となり、これまでのビジネスマン人生30年間の内、実に90%の時間を海外で過ごしてきたことになります。台湾駐在時、台湾人女性と出会い、国際結婚をしました。
インターナショナルスクールに通う娘は、日本語、中国語、そして英語を話すトリリンガルに育ちつつあります。
学生時代ずっと劣等生であった私が海外赴任で海外生活することになり、駐在員としての働き方体験をご紹介します。
海外赴任をするまで
1965年生まれのバブル世代の私は、平成元年(1989年)4月にビジネスマン人生を歩み始めました。
小売チェーン店に就職をし、入社直後から研修もそこそこに店頭に放り出され、朝から晩まで接客の日々を送りました。
お店の立地柄、外国人のお客さんがよく来ました。
イスラエル人、ブラジル人、アメリカ人など様々な国籍の方々が来られたのですが、外国人が店に入ってくるのが見えると、10人近くいたお店の先輩方のうち、ある女性は緊張のあまりフリーズし、ある男性は素早くバックルームに逃げ込み、誰一人としてその外国人客の前に立つ人はいないという状況でした。
その先輩店員方に前に押し出されるようにして、外国人客の接客をするのが私の仕事でした。実は、当時私は英語が全く話せませんでした。
高校時代の英語の成績は5段階評価で1。追試に次ぐ追試で、やっとの思いで卒業し、英語なしの小論文のみの入学試験を実施していた大学を選びました。
英語能力はゼロだったのですが、大学時代に所属していた体育会系運動部で鍛えられていたおかげで、度胸と体力だけは人並み以上にあったのです。外国人客が何を言っているのかはさっぱりわかりませんでした。
適当に推測しながら、ディス イズ ア ペン!みたいなことを言っているうちに商品は買ってもらえる、という不思議な現象が起きていたのです。
なぜ、海外赴任を目指したのか
お店の仕事に慣れてくると、このまま一生お店に立ち続けるのだろうか、と将来に対する不安が頭をもたげてきました。
一緒に入社した仲間たちは、3年以内に店長になるんだ!などと夢を語るのですが、私にはどうもピンときませんでした。
一度きりしかない人生で自分は何をしたらいいのだろう。
悩んで、一時は会社を辞めることも考えました。当時、日本はバブルの絶頂期であり、会社も海外に出店を推し進める、という方針を打ち出していました。
しかしながら、お店で外国人客の接客をしてはいたものの、英語が話せるわけでもありません。海外で仕事をしてみよう、などとは夢にも思いませんでした。
ところがある日、会社が海外派遣社員を募集しているぞ、応募してみたらどうだ、と先輩店員が言うのです。
仕事はできないが度胸だけはある私を、この先輩は日頃から可愛がってくれていました。
尊敬する先輩のすすめだから応募してみようか、と思いました。私が海外に適性があるのではないか、と先輩は思ってくれたのでしょう。
今にして思えば、この先輩が私を海外生活に導いてくれたのです。いくら感謝してもしきれない思いです。
どのようにして海外赴任が決まったか
海外派遣社員募集に応募し、試験を受けることになりました。試験会場に行きますと、一目で自分より優秀であることがわかる、先輩社員の方々でいっぱいでした。
英語の試験が行われました。英語試験用紙の問題を見た瞬間に合格はあきらめ、机に突っ伏して眠ってしまいました。
実は試験の前夜、女の子と飲みに行き、格好つけてドライ・マティーニを飲みすぎて二日酔いだったのです。
英語の試験の後、眠りから覚めすっきりした私は面接試験に挑みました。英語の試験の時、君寝ていたな、と試験官にいきなり指摘されました。
いやあ、昨夜は遅くまで残業してまして、などと適当なことを言いながら、これはまずいと思い話を逸らすべく、大学時代の運動部での過酷なエピソードなどを次々と披露しました。
面接試験会場は爆笑の渦に巻き込まれ、面接試験所定の時間をはるかにオーバーしたのでした。
何と驚くべきことに、数日後合格通知が届きました。英語の試験は確実に零点だったはずなのですが、度胸だけが買われたのでしょう。おおらかな、いい時代でした。
今も会社は時折海外派遣社員を募集するのですが、TOEICなどの高得点が要求されるそうです。今なら私は不合格間違いなしです。
それから間もなく、当時会社が買収したばかりのオーストラリア支社に、1年間研修という形で行ってこい、という辞令が下りました。26歳になったばかりの時でした。
海外赴任でどのような仕事をしてきたか
オーストラリア研修
オーストラリアに赴任した後、そこには日本人社員が1人もいない、ということがわかり、真っ青になりました。
実はオーストラリア支社は当時我社に買収されたばかりの、言ってみれば全く別の会社で本社も実体がよくつかめていなかったのです。
おおらかな時代の、おおらかな人事でした。そして、いきなりメルボルンのお店に店員として放り出されました。
店員である以上、商品を売らないといけません。赴任直前に買った「デイリーコンサイス英和・和英辞典」(三省堂)を常時片手に携え、何とか単語を並べて言いたいことを伝えようとしました。
オーストラリア人社員たちは、あまりに英語が話せない私に、こいつは一体何をしにオーストラリアに来たんだ、と一様にあきれた顔をしていました。
オーストラリアには、辞書の他にもう1冊本を持参していました。「日本を語る」(日鉄ヒューマンデベロプメント著、アルク出版、1987年発行)という本です。
日本についての様々なことを外国人に英語で紹介するという内容で、外国人と日本人の会話形式で書かれています。
日本に関して何か聞かれて答えられないと恥ずかしいな、と思って持っていったのですが、この本が私の英語の教科書になりました。
1年間のオーストラリア滞在中、テレビもない薄暗く狭い部屋で、毎夜繰り返し繰り返しこの本に書かれている会話を暗唱し続けたのです。
シャドー・ボクシングのような感じで、相手と会話している状況を想像しながら、暗唱しました。
日本語をほとんど話すことのない環境に置かれ、この本のフレーズを憶えては店でお客さん相手に試してみる、という生活を送るうち、徐々に英語で言いたいことが言えるようになり始めました。
あっという間に1年が過ぎ去りました。
帰国直前には私の売上成績はトップクラスになり、オーストラリア人の店長に頼りにされるようになっていました。なんと、高校時代、英語の成績5段階で1だった私が、英語で販売ができるようになっていたのです。
そして、この1年の努力が、私の一生を決定したのでした。
台湾で新店オープン
オーストラリアから帰国後、今度は台湾法人を立ち上げるべく、台湾に行け、という辞令が下りました。ポジションは、現地責任者の補佐でした。
外国人と一緒に仕事をすることの面白さをオーストラリアで知ってしまった私は、大喜びで台湾に赴任しました。
学生時代、勉強をしていなかった私は、歴史に関する知識もなく、台湾がどういうところなのかも知りませんでした。
台湾だから台湾語だろうと思い台湾語の教科書を買って持っていったのですが、現地に着いてから、公用語は中国語だ、と知り驚きました。
そして、台湾では中国語と台湾語の2言語が使われており、台湾人はバイリンガルであると知り更に驚いたのです。
当然のことながら、中国語も台湾語も全く話せませんでしたが、オーストラリアでの経験で外国語の学び方を身に付けていた私は、まず公用語である中国語に狙いを定め、学習を始めました。
中国語はイントネーションが重要で、それが難しいのですが、通訳の人の助けを借りて「中国語接客会話集」を自前で作り、それを繰り返し暗唱することにしました。
自分で中国語を学ぶと同時に、お店のオープンに向けて、若い台湾人スタッフに接客の仕方や商品知識を教えました。最初は通訳がいたのですが、この通訳がよく遅刻や欠勤をする人でした。
その人がいない時には無理にでも中国語で会話をせざるを得ず、絶好の中国語学習の機会となりました。
おかげで、1号店オープンの際には、店頭で台湾人のお客さんと簡単な会話をすることができ、喜んでもらえ、とても楽しかったのを憶えています。
赴任して4年後、台湾支社責任者を任命される頃には、テナントとして入居するショッピングセンターとの条件交渉や、会計事務所とのやり取り、そして商品買い付けまで中国語で行えるようになっていました。
そして、5つの店舗をオープンすることができたのです。台湾では、もう1つ大きな出来事がありました。台湾人女性と結婚をし、娘が生まれたのです。
シンガポールへの転勤
台湾駐在が10年になり、娘が2歳になった頃、支社長としてシンガポールへの赴任を命ぜられました。
シンガポール支社は歴史も長く、規模も台湾よりはるかに大きく、責任も重大となりました。良かったのは私が英語と中国語の2ヵ国語が話せたことです。
シンガポールは英語圏であるというイメージが強く、実際に公用語は英語なのですが、人口約560万人のうちの74%を中華系の人々が占め、中華系の人々の間では中国語を話すことがほとんどです。
英語はあくまでコミュニケーションツールとして認識されており、彼らの本音は中国語でしか聞くことができないことが多いのです。
台湾時代と違い、店頭ではなくオフィス勤務の時間が増えたのですが、営業部、商品部、人事部、会計部などの各部門のシンガポール人マネージャーたちとも、中国語と英語で突っ込んだ議論ができ、新しい商品やサービスを生み出すことができました。
4年間の滞在中、売上も利益も大きく伸ばすことができました。そして次のステップとしてオーストラリア支社長として抜擢されたのです。
オーストラリアから上海へ
16年ぶりのオーストラリアは大きな変貌を遂げていました。久しぶりに完全な英語圏での、しかも違う人種の人たちとのビジネスは、慣れないせいもあって厳しいものがありました。
長きに渡って、台湾、シンガポールと中国語圏で仕事をしてきて、私は中国的商習慣にどっぷり浸り過ぎていたのでしょう。私の元気がなくなってきたのを会社は心配したのか、3年後には上海転勤のオファーがきました。
支社長ではなく、営業部長のポジションでしたが、上海支社はシンガポール支社やオーストラリア支社とは比べ物にならないほど規模が大きく、店舗数が多く、チャレンジする価値はあると考えた私は上海に行くことを決めました。
上海に来て驚いたのは、その変化の激しさ、出来事の多さ、そして時間の過ぎていくスピードの速さでした。2010年の上海万博の開催、2012年の反日暴動の発生、などはついこの間のことのように感じてしまいます。
上海の変化の激しさに振り落とされないよう、超大型店舗のオープン、新しい商材発売、ネットビジネスへの参入など、矢継ぎ早に新しい仕事にチャレンジしました。
コケの付く間もないローリングストーン(転がる石)でないと、生き残っていくことができないのが上海という街です。
海外赴任をして良かった点
楽しい毎日を過ごしてくることができた
海外で仕事をしてきて良かったのは、エキサイティングで楽しい毎日を過ごしてくることができた、ということです。この30年近く、退屈をしたことなど1日もなかったと言っても過言ではないでしょう。
言語も文化もまるっきり違う外国人たちと仕事をするのは、大変なことばかりです。
ほぼ毎日、何かの事件が起きます。しかし、大変なだけに、外国人たちと目標を共有し、協力し合い、いい結果が出た時の嬉しさや興奮には格別のものがあります。
海外駐在を終えて日本に帰った人は、一様に退屈だ、と言います。まず、日本では事件はほとんど発生しませんし、同僚にわかってもらうために一所懸命外国語で説明する必要もありません。
喜びと苦しみは表裏一体である、ということがよくわかるのです。
少し、優しくなれた
海外に出る前の私、そして海外にでてからしばらくの私は、怒りっぽく、不寛容で、冷たい、嫌な人間でした。海外で仕事をしていると、思い通りにならないことがほとんどです。
海外に出てからしばらくの間は、何かにつけ、怒ったり怒鳴ったりしていました。
しかし、いちいち怒っていると、当然のことながら、現地社員に嫌われます。現地の社員に嫌われて協力してもらえなくなると、仕事のクオリティも下がっていきます。
現地社員が何か良くない行動を行えば、指摘して再発を防ぐ必要があります。叱らないわけにはいきません。どうすればいいのか、悩みました。
そしてある日ふと、人間とは失敗するもの、間違えるもの、忘れるもの、さぼるもの、しんどいことや面倒なことが嫌いなものだということを認めて受け入れるしかないのだ、と気が付いたのです。
そして、思えば自分もそんな人間の1人でした。
誰かが失敗したり、間違えたりした時は、当たり前のことが起きたと考える。
そして、その発生原因を追究し、再発防止策を速やかに実行に移す。社員も叱られたり、怒鳴られたりするわけではないから、再発防止に努めてくれます。
また、人はそれぞれ全然違うものであることが当たり前であり、人はそれぞれ違うからおもしろいのだということも理解できるようになりました。
海外で生活してきたおかげで、随分と許容範囲が広がり、怒ることが少なくなり、寛容になることができたのではないか、と思います。
様々な能力を引き出すことができた
学生時代の私は、全くの劣等生でした。勉強が嫌いでした。
しかし、海外に放り出されてみると、あれだけ苦手だった英語を懸命に学び、そして話せるようになり、英語を駆使してビジネスができるようになり、その上中国語まで話せるようになりました。
様々な異文化を理解できるようになり、海外法人の社長まで務めさせてもらうことができました。英語が話せないからと海外で仕事をすることをあきらめていたら、私の人生は違ったものになっていたでしょう。
誰もが、海外で仕事をすることによって、追い詰められ、脳が刺激を受け、精神が集中し、自分でも想像もつかなかった新しい能力が引き出されるのだと思います。
まとめ
日本から逃げ出したい。外国で一旗揚げてお金持ちになりたい。きれいな街で生活してみたい。などなど、海外で働きたい、という動機には様々なものがあると思います。
どのような理由にせよ、海外で働きたいという夢を持ったら、ぜひ、行動に移してみてほしいと思います。もし、海外に出て仕事をしてみて、結果として失敗だった、ということがわかったとしても、若い時の1年や2年、どうということはありません。
日本に帰ってやり直せばいいだけの話です。私も、初めに海外に出た時は、いやだったらすぐに日本に帰ればいいや、と考えていました。逆に、そのように簡単に考えていたのが良かったのかもしれないのです。
学生時代英語がダメだった、という人も全く心配は要りません。私は高校時代、英語の成績は5段階の1でした。しかし、それでも27年もの長きに渡って、海外で生きてくることができたのです。
海外で仕事をしてみたいのなら、勇気を出して手を挙げてみましょう。現地で一所懸命勉強すればいいのです。
最近は選抜時にTOEICのスコアを求められたり、難しくなっているのは確かですが、もし私が試験官なら、TOEICの結果など参考程度にしか見ないと思います。私のような試験官が、あなたの会社にもいるかもしれません。
海外で働きたい、というあなたの夢が実現することを祈っております。
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