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海外就職を希望した私の履歴書~コスタリカで就職した7要素

  • 公開日:
コスタリカの壁アート

今から50年前といえば、まだ海外での就職の情報がほとんどない時代でした。まだ高校生だった私は、アメリカ人と話がしたい、アメリカで働きたいと心のどこかで考えていました。理由はわかりません。そういう願望があったのみでした。

明確な目的意識のないまま、その時、その時を過ごしてきた中で、不思議にも少しずつ目標に近づいて行ったのです。

国際結婚をして、そこから10年後、妻の国である中米コスタリカで就職し、若いころ夢見ていた海外での生活に到達した7つの要素を紹介します。

若いときからアメリカで就職したかった私

英語

英語との出合い

まだ小学生のころでしたが、私の家に下宿していた大学生がラジオでFEN(在日米軍向けラジオ放送)を聴いていました。おそらくそれが、人生で初めて英語を聞いたときでした。

高校生の時はバレーボール部に所属していました。そのときは、高校の授業よりも、部活動を第一と考えていました。

したがって、全ての成績は下降し、英語の成績も悪かったものの、先生たちが「まあ、あいつはクラブで頑張っているから点をあげとくか」。

と言っていたかどうかは分かりませんが、おそらくそのようなことだったのでしょう。ギリギリで進級していた感じです。

調理師学校へ

高校への通学中に、よく見かけるアメリカ人の中学生(?)がいました。ある日、電車で隣り合わせにすわったとき、頭に血が上って、いつの間にか彼に話しかけていました

今では何を言ったのか覚えていませんが、初めの一言の後、何を言ったらいいのかわからず困ってしまいました。次の言葉を考えていなかったのです。話しかけた子を困惑させただけでした。

高校卒業後、大学へ行かず、調理師学校へ進みました。料理が好きだったことが理由ですが、「調理の仕事で外国に就職してもいいな」くらいの考えがありました。

アメリカ軍基地

高校のバレーボール部の先輩が所属していたクラブチームに誘われて入ったのも、このころでした。市の大会、2市合同の大会、三多摩の大会などがありました。その中でアメリカ軍の基地との交流の大会もありました。

このときに初めて、アメリカ軍の基地内に入りました。当然ですが、アメリカ人だらけです。アメリカ人の子供も見に来ていました。またもや、むらむらと「話したいな」という感情が生まれてきました。

今回は、試合順を待っているのんびりした中だったのと、相手が小学生くらいだったこともあってか、数会話できました。しかし、日本語で考える内容を英語に訳していたので、自然な会話には全くならなかったのです。

大学進学

大学に進学した友人が多い中で、彼らの話についてゆけず、「やはり大学に行かないとダメかなー」といった考えが生まれました。

そこで調理師学校卒業後、大学に進学しました。大学でも英会話の授業を取りましたが、ほとんどものになりませんでした。授業の内容が悪かったのではなく、私の授業態度の問題でした。

大学でも、バレーボール部で活動したり、大学祭の運営にのめりこんでいました。まあ、当時の大学生はそのような人が多かったように思えます。

アメリカ系企業の日本支社に就職した私

機械

大学卒業後、アメリカ・オハイオ州の精密金型ツール会社の日本支社に入社しました。なんといっても、外資系というのが魅力でした。

社長と話したい

会社内は日本人だけでしたが、支社長や部長は英語が堪能でした。日々、アメリカ本社へのテレックスの英語の文面は、彼らに頼っていました。

時々、アメリカ本社の社長や経理の部長が来社します。本社の社長たちとの交流を目的とした夕食会もありました。

この中で、通訳を介さず直接社長と話がしたいという欲望が強くなっていきました。初めは、イギリスの会話テープを買って英会話の勉強を始めました。しかし、あまり長続きはしませんでした。

その後、英会話スクールに入りました。アメリカ人の先生との、様々なテーマに沿ったフリートークのクラスでしたが、私にとっては続けられる内容の授業でした。

外国人との付き合いが多くなった私

写真

写真

英会話スクール

この英会話スクールは、日本にある外国の会社や大使館などへ企画旅行やパーティーを周旋し、それらの企画にスクール生の日本人も参加できるシステムをとっていました。もちろん有料です。

積極的に旅行や、パーティーなどへ参加し、外国人との会話も少しずつできるようになっていきました。  

4泊5日の京都旅行などもありましたが、アメリカ企業の重役の家族や、フランス大使館員、フランス大手会社の社長、オーストラリア人の留学生、スーダンの大使館員、フランス人の小学校教師など、外国人20名くらいが参加して、とても楽しいものでした。

異文化交流

その旅行で、スーダンの大使館員と会話をする機会を多く持つことができました。その後、彼との交流が続くことになります。

彼は、イギリスの大学を卒業しており、きれいな発音で私にも聞き取りやすかったのと、私のつたない英語を辛抱して聞いてくれたのもありがたいことでした。彼の母国語は、アラビア語です。

同時に、フランス人の小学校教師とも仲良くなることができました。

彼らの家に行ったり、彼らの友人と会話やパーティーを楽しんだり、旅行をしたりで、英会話力は少しずつ進歩していきました

この中で、スイス人女性との交流も生まれましたが、このことも、英語力が上がる要素になりました。

アメリカ本社を視察

英会話に自信を持った私は、アメリカ本社への視察を希望し、1人で本社訪問をする機会をつかみました

私は、本社視察を希望した第1番目の社員でした。本社の視察中、毎日、本社の誰かが昼食、夕食に招待してくれます。

ハンバーガー、ポテト、ステーキ

残念なのは、いつも大きなハンバーガーの連続だった事です。ハンバーガーの焼き方を聞かれると、ため息が出ます。理由は、焼き方を聞かれると必ず大きなハンバーガーが、大量のポテトと共に出てくるからです。

時差に悩まされ、食欲もなく、食事に関しては大変な1週間でした。社長からも夕食に招待され、彼が注文し出てきたものは、特大のプライムリブ・ステーキです。

うんざりしていると、「これを全部食べられなければ、明日から放り出すぞ」というようなことを言われ、必死で食べました。

さまざまなアメリカ

オハイオの人たちの発音は、とても分かりやすいものでした。その中で、聞き取りにくい発音の人もいました。

社長に「彼の発音は、聞き取るのが難しいですね」というと、社長は冗談交じりに「俺も、あいつの言っていることは何もわからないよ。あいつはカリフォルニアの人間なんだ」。同じアメリカ国内でも、場所によって発音が違うことを知りました。

視察が終わり、1人で観光に出かけましたが、私がニューヨークへ行きたいと言うと、社長が「ニューヨークは危険なので、ほかの所にしなさい」とのこと。確かに当時のニューヨークは危険なところだったようですが。

英語もいろいろ

結果、フロリダのディズニー・リゾートに行きました。フロリダでは初めてスペイン語なまりのある英語を聞くことになりました。そのときの印象は、「なんて聞き取りにくい英語だろう」という感じでした。

フロリダの後、社長が、コロラド州ブラッケンリッジへのスキー旅行に招待してくれました。そこには彼のスキー用の別荘がありました。

スキー場は標高も高く、サラサラのパウダースノーで、日本のスキー場ではなかなか経験のできない、膝上の新雪のすべりを経験しました。

この旅行では、その後もいろいろなハプニングがありました。しかし、なんとか1人で切り抜けて日本に帰りつきました。このときは、まだまだ片言英語でした。

英語を本格的に勉強した私

東京タワー

アメリカから戻り、アメリカ本社への転勤を希望しました。そのときの本社からの返事は、「英語力が不十分」というものでした。今にして思えば当然の回答であったと思います。

さらに当時は、アメリカ本社に出社すると、就活の人たちが毎日20人から30人来ていたのです。片言英語の日本人の私を雇用するメリットは全くなかったといってよかったのです。

しかし、このことが励みとなりさらに英語の勉強を続けました。

努力はウソをつかない

英語の勉強を続けるとともに、外国人との交流も増えていきました。休日に外国人向けのフリーガイドを始めたりもしました。

その後、アメリカ本社の社長が来社しました。そのとき、商品の技術的な話を彼としているときでしたが、彼が話の内容より「おまえ、英語がうまくなったな」と言ってくれたのです。このときは、天にも昇るような気持ちでした。

コスタリカ人と国際結婚した私

妻の写真

運命的な出会い

相変わらず、英会話スクールの企画に参加していましたが、年初のパーティーのとき、その後、妻となるコスタリカ人に初めて会いました

そのときは、「少しかわいいけれど、気が強そうで自分の好みではないな」という印象でした。

その数日後、友人の日本人女性から「家の近くでパーティーがあるけどいかない?」と誘われました。招待された家に彼女と行くと、なんとそこは、年初のパーティー で会った女性の家でした。

その家はコスタリカ参事官(のち代理大使)の家で、彼女もそこに住んでいました。彼女はコスタリカ大使館で働いていたのです。

「なんという女性だ」

そのパーティーには、中南米からの研修生が30名ほど来ていました。

彼女を見るともなしに見ていると、1階ではメキシコ人と仲良くしており、2階に行くとパナマ人と仲良くしていました。そのときは、「なんという女性だろう。こういう人とは絶対に付き合うものか」と思いました。

数日後、連れて行ってくれた友人から連絡があり、コスタリカ人の彼女が私に会いたがっているとのこと。会って話してみると、なかなか話が合います。

それから、2年間の友人としての付き合いが始まりました。私の今までの外国人の友人との付き合いに彼女が入ったり、彼女のラテンアメリカ系の友人たちの中に私が入ったりしました。

結婚

2年後、彼女と婚約をしましたが、2年間で私の彼女に対する考えは180度変わっていました。他人に対しての優しい気配りや、しっかりした個性や考え方、料理の上手なことなどまで考え抜いた結果、結婚することに決めました。

結婚式は、日本とコスタリカとで、2度行いました。日本の結婚式は、六本木のディスコを借り切りました。私の友人、家族、親戚や、彼女の友人、外国公館の人たちなど、ほぼ200名が5時間、踊って踊っての結婚式となりました。

コスタリカへは、結婚式のために初めて訪れたのですが、彼女の住んでいる町には、自動車が3台しかなかった時代です。しかし、明るく人懐っこい人々には魅了されました。36年たった今でも、そのときの気持ちは変わっていません。

決断

結婚して9年間、日本で生活し、子供も3人生まれました。

40歳にもなろうとしているとき、妻が、どうしてもコスタリカへ帰りたいということを言い出しました。「もし一緒に行かなければ、離婚してもいい」と言われては、コスタリカ行きを決断する以外、選択肢はなかったのです。

スペイン語圏のコスタリカへ移住した私

コスタリカの空港

※コスタリカ国際空港内

そのころ、コスタリカの情報など全くと言っていいほどなかった時代です。コスタリカに行って、仕事がなかったらどうしようと悩みもしました。

そんな中で、コスタリカの友人が耳寄りな情報を教えてくれました。コスタリカで多数の会社を経営している日本人がいるとの話です。

その日本人の友人に、就職の斡旋(あっせん)を依頼しました。コスタリカからの答えは、簡単に一言で「No」でした。

不思議な自信

しかし、そのときの私は、コスタリカへ行って直接頼み込めば必ず雇ってもらえるという自信がありました。なぜそのように確信できたのか今でもわかりません。

その会社に就職することを前提に、両親、親戚、友人、恩師、勤めていた会社の社長に説明しました。

このときの説明は、「コスタリカで会社経営をしている日本人がいて、ぜひ私に来てほしいと言っている。妻への話ということもあり、どうしても断ることができないので、仕方なくコスタリカへ行きます」という内容で通しましたが、そのときは、コスタリカの会社の社長自身は、私のことなど全く知らなかったのです。

コスタリカで就職できた私

不安はもちろんありましたが、コスタリカに到着し、日本人の社長に電話でアポイントを取りました。

面会は、彼の経営するホテルのロビーでおこなわれました。日本での仕事のこと、調理ができることなどを説明しましたが、私とすれば、就職先はここしかないのですから必死でした。

社長は、あきれて聞いていたようでしたが、仕方がないと考えたのでしょう。また、気持ちの大きな人でしたから、「来月から来なさい」との承諾を得ることができました。

ここから、日本では思いもよらないようなコスタリカでの仕事が始まったのです。

まとめ

コスタリカ

子供のときのあこがれからしっかりとした最終目的のないままの人生でしたが、その日、その時の経験が、コスタリカでの就職に結びついていたのでしょう 。

コスタリカへ来る直前は、無謀とも思える行動でしたが、幸運にも予定どおり就職もできました。

コスタリカで就職し、日本の人たちに連絡を取りました。「予定どおり、コスタリカで就職しました。ぜひ、コスタリカへお越しください」との文面でした。

ラテン的、コスタリカ的な発想になっていたのでしょうか?

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