30代女性がオーストラリアで働くことを選んだ理由とは?就職経験談

ハイタッチ オーストラリアの働き方

「なんでオーストラリアに来たの?」「オーストラリアが好き?」「オーストラリアに来られて幸せでしょう?」現地で何回も聞かれて、そのたびに答えに詰まった私。だってオーストラリアのことは特に好きでもなかったからです。

私には子供の頃から「いつか海外で勉強したり働きたい」という夢がありました。その夢をかなえるためには永住権が必要と気づき、永住権を日本に居ながら申請できて、取得の可能性が高かったのがオーストラリアだったのです。

そして念願がかなってオーストラリア政府から永住権をもらえたので、日本人の夫と一緒に移住した、というのが実情でした。オーストラリアに到着した時には、誰一人知り合いもいず、住むところもわからず、就職先も無く、さらに英語力も全く足りませんでした。

そんな私でもオーストラリアで働けた!という経験をお伝えします。

オーストラリア就職前の日本での仕事

ビジネスウーマン

私は日本で地方公務員でした。大学では法学部に所属し、卒業後は地方自治体の事務職に就きました。14年ほど勤務をして、オーストラリアへ行くために退職したのは30代半ばの時です。

自治体職員は本人の希望とは関係なく数年おきに異動があるため、1つのキャリアを築くことはできません。これが後にオーストラリアでの就職の足枷となるとは、現地に行くまでは全く想像もしていませんでした。

就職活動の初期には連戦連敗でしたが、その後、ひょんなことから逆に自治体で長く働いた経験が評価されて、一発大逆転で就職成功に結びいたのですから、人間の経験はいつどこで役に立つかはわかりませんね。

最も長い経験は自治体首長の秘書室勤務でした。この仕事で、企画運営、文章力、気働きを鍛えられたのは、その後の人生でも活かせる、良い経験になったと思います。仕事にはとてもやりがいを感じていました。

もともと人の役に立ちたい、と思って就職したので、どんな仕事でも張り合いがありました

海外で暮らしてみたい!

地図

私は子供の頃から、漠然と「外国で学んだり、働いたりしてみたい」と思っていました。大学進学時に真剣に海外への留学を考えましたが、留学費用は高額です。私の両親だけでは負担できそうもありません。

奨学金についての情報も少なかったので、留学は諦めました。海外にはたまに旅行で行けばいい、きちんと日本で働こう。そう思って念願の公務員になりました。

働き始めて5年程で、たまたま知り合った日本人男性と結婚しました。彼は外資系IT企業に勤めるエンジニアでした。しかし、英語に関してはメールで読み書きはできても、話す・書くは苦手でした。

結婚して暫くしてから、お互いが「一度は海外で暮らしてみたい」と思っていたことを知りました。偶然ですが、二人が子供の頃から同じ夢をもっていて、同じように諦めていたのです。それなら大人になった今、自分達で責任を持ってその夢を叶えられないだろうか。そう思ってとりあえず調べてみよう、と趣味半分で海外の就職事情を調べ始めました。

暮らすために必要なビザをくれるのはどこだ?

ビザ

永住権が必要だ!

いろいろと調べていく中で私たちの目標である「その国の国民と同様に働き、友達を作り、家を買って生活する」ということを実現させるためにはビザが、しかも「永住権」を取ることが一番良いことがわかりました。

ではどの国からどうやって永住権を手にしたらいいのでしょう?

当時30代に入っていた私達が、仕事を辞めてワーキングホリデーに行くのは帰国してからの仕事探しに困ります。それは学生として行くのも同じことです。

特に私は公務員を辞めたら、二度と同じ職にはつけないので、このワーキング・ホリデーと学生という2つの選択肢は除外しました。国外から申請できる労働ビザは、寿司職人など特殊技能者でなければ取れそうもない。夢がしぼみかけました。

どの国なら国外から普通の人でも永住権を申請できる?

そこで国外から永住権を申請できる国を探しました。当時はアメリカ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドが該当しました。けれどもアメリカは既に労働ビザで働いている人か、抽選で選ばれた人に永住権が与えられます。

カナダ・ニュージーランドはそれぞれ留学経験やワーキングホリデー経験のある人が優先されます。でもオーストラリアは私たちが申請した当時、そのような縛りがありませんでした。こうしてオーストラリアが移住先の最有力候補になったのです。

その頃に、あるオーストラリアの移住・留学コンサルタント事務所が開催したセミナーに参加しました。そこで当時は「Skilled Migrants Independent、AT subclass 126」 (スキルド・マイグランツ・インディペンデント、カテゴリー126=技術独立永住ビザ、126) というものがあることを知りました。

夫のIT会社での経歴が活かせそうなので、それで永住権を申請することに決め、コンサルティング契約を結びました。そして様々な準備の後、ようやく永住権の申請を在日オーストラリア大使館へ提出して、約1年半後に永住権を手にしました。

永住権を取得して、これでついに海外で暮らせる!と私たちは大喜びでした。(注:これは現在では大きく変更されています。Subclass 126も無くなりました)

永住権の取得を考える場合には、必ず直近の情報を、オーストラリア移民局のHPで直接確認してください

就活前に住居と英語だ!

キー

私たちの英語レベル

技術独立永住ビザを申請する際に、夫はIELTS(アイエルツ)という英語の4技能レベルテストを受けて、一定点数以上を取る必要がありました。

当時はアイエルツの情報が少なかったので、永住権を申請する前に一度オーストラリアを見てこよう、と旅行した際に現地の本屋さんで手に入れた過去問で勉強。3回目の受験で合格水準を取り、永住権を申請することができました

私はビザ申請段階では英語力の証明を求められませんでした。このまま何もしなくていいのだろう、と思い込んでいたところ、まだ永住権の申請結果が不明な段階で突然「提出日から過去3か月以内に受験したアイエルツの結果を〇月〇日までに提出しなさい。

できなければ○○○○ドルを払って現地で510時間英語を勉強するように」と大使館から連絡が来ました。タイミング悪く、その時私は入院中だったため、仕方なくお金を払って現地で勉強する選択をしました。

ビザが出た。さあ準備だ!

さて永住権が取得できたのは5月。喜んでビザを見ると、来年1月末までに入国すべし、の文字が記載されていました。あと8か月しかありません。慌てて親や職場、友人に事情を説明をし始めました。

それまでは趣味半分で永住権申請をしていたので、まだ誰にも私達のオーストラリア永住に関しては話していなかったのです。

「せっかく公務員と外資系IT企業に勤めているのに、なぜ外国に移住したりするの」と多くの人に言われながら、それでも夢の実現に向けて、私たちは出発準備にとりかかりました。

現地の求人をネットで検索しても、ほとんどが経験者を求めていました。これは行ってすぐに就職は無理だ、と腹をくくりました。しばらくは貯金を取り崩す生活になるので、あまり住居費が高くなく、かつ就職もできそうなところ、とまずは住む街を選定しました

オーストラリアで一番人口の多い街、シドニーは会社も多く就職のチャンスもありそうでしたが、住居費が高いことがわかりました。2番目の都市、メルボルンはシドニーよりもやや小ぶりで、住居費は半分。そこで移住先はメルボルンに決めました。

家財道具を現地で買い直すのはもったいない、とほとんどを海上輸送の国際引っ越し便で送りだし、私たちはすぐに使う海外仕様の家電製品類を抱えて、1月末にメルボルンへと旅立ちました。

到着したメルボルンで英語の壁にぶちあたる

入国審査はあっけなく終わり、とりあえず予約しておいたCity(街の中心街)のサービスアパートメントへ行こうとしました。ところが乗ったタクシーの運転手さんの言うことが、ほとんど理解できなかったのです。

独特のオーストラリア英語を相手にして、これからどうなるのかな、と不安を抱えながらの初日でした。翌日からCity内でできるMedicare(メディケア=国民健康保険)の加入や、銀行口座の開設、何につけても必要なTax File Number(タックス・ファイル・ナンバー=日本のマイナンバーのような個人識別番号)の申請に2人で駆け回りました。

そしてどこへ行っても、英語の壁が予想していた以上に高いことを実感しました。

Cityから少し離れた場所にあるMigrants Resource Centre(マイグランツ・リソース・センター=移住者向けの情報サービス提供機関)も訪ねてみましたが、 私たちが日本で調べてきた以上に有用な情報はあまり得られませんでした

住居探しの苦労で英語の猛勉強を決意

マイグランツ・リソース・センターがおすすめする場所は、移民が多くて暮らしやすい、と聞きました。でも行ってみるとなんだか荒んだ雰囲気です。いくら家賃が安くても、安心して暮らせないのは困りると思い、自分たちで探すことにしました。

そこでメルボルン圏域の全てのストリート名が書いてあり、メルボルン生活では欠かせない、とホテルの人に教えてもらった地図帳、Melway(メルウェイ)を買い、それを片手にCity近辺のSuburb(サバーブ=市という行政単位を作る、町のようなもの)へ路面電車でかけ、不動産屋を訪ねました。

そこでもやはり英語が問題になりました。相手の言うことが半分以上、わからないのです。私は度胸で何とか単語だけでも並べてコミュニケーションをとりますが、夫はお手上げ状態でした。

後から振り返ると、不動産屋は主に売り買いに強いところと、賃貸に強いところがあり、売買主体の不動産屋にとっては賃貸は儲けが小さくてあまりやりたがらないのです。

私達はその違いが判らず、最初はとにかく手あたり次第に不動産屋に飛び込み、売買主体の店で冷たくされたりもしました。最初は警戒されていたのに、日本人とわかると突然安心されるのも面白い経験でした。日本人は靴を脱いで暮らすので、部屋を綺麗に保つよい借り手だという評判ができているようでした。

ようやくセキュリティもしっかりとした賃貸アパートを見つけて契約できたのは、到着から10日後でした。その時には「もう一度しっかりと英語を勉強しなければ、ここでは生きていけない」と思い知らされていました。

大人の移民向け英語学校で体当たり英語修行

私はビザ取得の際にお金を払いこんである英語授業を受けるために、政府が決めたAMEP( Adult Migrants English Program=成人移民のための英語プログラム)をAMES(Adult Multicultural Education Service=大人の複文化教育に関するサービスを提供する機関)で受講することが決まっていました。

でも夫は?語学留学生と同じで授業料の高い私立の語学学校に行くしかないのか?と思っていた時、マイグランツ・リソース・センターが有用な情報をくれたことを思い出しました。

Centrelink(センター・リンク=住民の失業保険、福祉相談などを一括して受け付ける窓口)に行き、失業証明をもらえば、夫は無料でAMEPを受講できるとのことでした。

早速Centrelinkに登録をして、失業証明をもらい、彼もAMEPで勉強を始めました。 2人とも2月から勉強を始めました。私は中級、夫は上級。

さあ、どんな授業があるのかしら、と喜んで行った初日に勉強したのは、過去形の作り方でした。それ、中学英語じゃない?と呆気にとられてしまいました。でも試験の評価では私は中級です。なぜなら読めるけれども、書けないし、聞き取りや発話ができていない、と判断されたからです。

そう言われると何も文句は言えません。510時間、せっせと勉強をしました。その間に日本人には1人だけ会いました。それがこの街で会った最初の日本人で、友達になりました。

残念ながら彼女はすぐに自宅近くの学校に変わってしまい、私はまた独りぼっちの日本人になりました。でもそれが良かったのだと思います。

移民対象の学校なので、世界中から学生が集まっています。共通語は英語しかありません。そこでおしゃべりをしたいために、必死に聞き、話すことを繰り返しているうちに、だんだんと周囲の会話が意味を持って聞こえるようになりました。そうして510時間が終わる頃に、夫も私もようやく就職できたのです。

オーストラリアではどんな仕事をどうやって見つけたか

仕事

元公務員だった私の苦戦

私はAMEPでの勉強510時間の半分を過ぎた頃から、メルボルン唯一の日系エージェントに登録し、またネットで見た政府系や企業の事務職を中心に応募、レジュメを送り続けました。

そんなに贅沢を言っている場合じゃないため、職種にはこだわっていませんでした。年齢の数ほどレジュメを送れ、とAMEPの教師に励まされながら応募をしても、現地のエージェントからはまったく声がかからない日が3か月以上続きました。

後に知ったのですが、日本の事務職は「何でも屋」です。なんでもできる順応性と能力が高く評価されます

ところがオーストラリアでは「何でも屋」は「何でもできるけれど、深くはできない。キャリアを築けていない人」と低く評価されてしまうのでした。公務員であった分、一貫したキャリアを築けなかったことが裏目にでたのです。

一発大逆転

そろそろAMEPの510時間が終わってしまう、と焦っていた頃に、日系のエージェントから現地企業でのポジションを紹介されました。細かい財務管理業務と会計業務、さらに今後プロジェクトを組む予定の日本企業との窓口になる人を探していたのです。

日本企業側に候補者数名を紹介したところ、元公務員の私が一番しっかりしているだろう、という理由で気に入られ、採用が決まったそうです。一発大逆転でした。

その後、就職した現地企業が日本企業の現地法人傘下に入り、私もそこに移りました。会社名は変わりましたが、オーストラリア生活の最初から最後まで、7年間同じオフィスで働き、その後日本に戻ってからも日本の本社で働くことができました。

当時、日本人の就職先は少なく、特にオーストラリア人男性と結婚した日本人女性がたくさん仕事探しをしていた中で、私はとてもラッキーでした。

給与はあまり良いとは言えませんでしたが、働く場所があり、自分もこの社会の一員だ、と実感できるのはこの上なく嬉しいことでした。

IT技術者の夫の意外な苦戦

夫もあちこちの会社にレジュメを送っていました。彼はIT系だったので、私の場合よりも反応は良く、エージェントからは声がかかります。ところがそこで止まってしまうのです。原因はやはり英語力と、自己PRが下手だったことです。

一般に日本人は自己PRが苦手だと言われていますが、まさに夫はその通りでした。100%できると思ったことは「できます」と言いますが、80%の時は「多分できます」と答え、50%の時には「ちょっと難しいです」と答えていました。

ところがオーストラリア人は10%でもできれば「できます」と答えるのです。0%ではなく、少しでも知っているのだから「できる」と自己評価する傾向にあります。同じ土俵に立っていても、ルールが違うようなものでした。

日本の元上司の助け

これではなかなか仕事に就けない、と焦っていた頃に、日本での勤め先だった外資系IT企業の上司が連絡をくれました。そのIT企業のオーストラリア法人が、なんとメルボルンの郊外にあったのです。

元上司が仕事上で付き合いのあったオーストラリア人マネージャーに夫のことを話してくれ、契約社員としてそこで働きました。3か月ごとの契約更新でしたが、結局2年近くそこで働きました。

オーストラリアでの契約社員は、いつ契約が切られるかわからないリスクを抱えている反面、給料が高くなります。日本の派遣社員や契約社員との大きな違いです。

IT業界では契約社員は正社員の1.5倍ほどもらえるのが相場でした。それまでは貯金を崩さないように質素倹約していた我が家は突然、お金に困らない家になりました。

その後、やはり契約社員では心許ないと別の企業の正社員のポジションに応募し、今回は日本の顧客向けITサポート業務を担当するポジションを難なく得ることができました。

その頃までには夫の英語力も上がっていた上に、日本とオーストラリアで勤めていた外資系IT企業が偶然名前の通ったところだったこと、さらに日本とオーストラリア両国で一貫してキャリアを築いたことが評価された結果でした。

オーストラリアで働いて見えた良い点と悪い点

2人で働いてみて気づいたオーストラリアで働く良い点は、何と言っても仕事時間がきっちりと守られ、残業はよほどの繁忙期以外にはない、人間らしい働き方ができることです。

そしてミスをした場合に、周囲から責められないことも嬉しい驚きでした。ミスをして謝っても「人間だからね、完璧はないよ。気にしなくていい。Never mind, dear.(=気にすることないよ)」と周りから、かえって気を遣われるのです。日本式の「ミスをしたら、その人の責任。

そして原因を徹底的に究明し、二度と同じことが起こらないようにする」という品質管理的には良いことでしょうが、ミスをした本人にはいたたまれない状況が当たり前、と思っていた私には驚きでした。とはいえ、ミスをした本人がしゃらっと「Never mind」と言い放つと、迷惑をこうむった側としてムカッとする時もありました。

また、数か月に1回は自分の仕事の評価について、上司と1対1で話す機会があります。今では日本でも取り入れる企業が多くなりましたが、当時の私にとってはとても新鮮でした。

そこで上司が私の日頃の働きをどう評価しているか、次は何を期待しているかを率直に教えてもらえます。さらに反対に上司からは「僕が足りない点はどこだろう?僕自身のために教えて欲しい」と頼まれるので、日ごろ「こうしたらいいのに」と思っていたことを話します。

お互いに理解を深め、また改善点に気づくという点で、とても有意義な時間でした。さらに私の上司に限らず、ほぼすべての上司が「俺はボスだ」という姿勢ではなく「一緒に仕事をする仲間だ」という姿勢でいてくれることが、オーストラリアで働いて一番嬉しかった点です。 この「みんな同じ労働者だから」という感覚はオーストラリアでは根強いものでした。

お店のスタッフも、今はたまたまあなたにサービスする側にいるけれど、私は召使じゃない、売り場の担当者だ、と仕事のプロフェッショナル意識を持っていて、客と対等な関係が当たり前なのです。「お客様は神様です」の国から来て見ると、とても新鮮に見えました。

私が友達も知り合いもいないメルボルンにやってきた、と知った周囲が「それは辛いだろう。確かあの会社にも日本人がいるよ」と教えてくれて、他の企業に勤める日本人女性と知り合いました。

そこから横のつながりができて、お互いに慣れない異国で暮らす日本人女性どうしで助け合えたのも、日本では得られない経験でした。反面、悪い点もありました。

自分の同僚では感じませんでしたが、残念ながら、あからさまに私を見下す態度の取引先担当者もいました。人種差別は恥ずべきことだ、という気風がオーストラリアで一番強いと言われるメルボルンでも、Cityで働いている人にはエリート意識が高いためかもしれません。

こちらが顧客でも英語が拙いからか、自分のミスを私の英語のせいにする、という意地悪をされたことが何回もありました。

滅多に怒らない私ですが、1回だけあまりにも酷い対応をした取引先銀行の担当者と電話でケンカをしました。その女性はいつも話の最後に「Do you understand?」を繰り返すのです。

まるで小さな子供に対するように「ドゥ・ユー・アンダースターーーンド?」と言われるのが「ねえ、あなた、わかる?本当にわかってるの?」と言われているようで、とても嫌でした。

ある時、彼女から、こちらが頼んでもいないオンライン為替予約キットが送り付けられました。彼女の業務の省力化にはなりますが、こちらには発注違いをチェックする機能が減り、リスクが高くなります。

私の上司と相談して「これは我が社には必要ありません」と手紙をつけて、彼女の上司宛に送り返しました。

翌日彼女が「あなた、自分が何したかわかってるの?私に恥をかかせて!どうしてくれるのよ!」と怒りの電話をしてきたので「あなたのカスタマーサービスレベルには失望しました。もう一切あなたとは話したくありません。上司の名前と電話番号を教えなさい。私から上司に電話してお話します。ドゥ・ユー・アンダースターーーンド?」と私は言いました。

結局上司には繋いでもらえないまま、数回のやり取りがあり、最後には彼女が猫なで声で「ねえ、私達何か誤解があったみたいね。私達、ずっといい関係だったでしょう?」と言うので「いい関係?そんなこと、思ったことも無かったわ。いい関係の意味がお互いに違うみたいね。

ドゥ・ユー・アンダースターーーンド?」と言って、そろそろ自分の英語脳も疲れてきたので終わりにしました。電話を切って脱力している私に、オフィス中の人が拍手をしながら「よくやった!聞いていてすっきりしたよ!」「君、ケンカの時は英語がうまいね!」と言ってくれたのを喜んでいいのかどうか、と複雑な気持ちになりましたが、とにかく私は相手をやり込めたのです。

その国のことばでケンカができるようになれば一人前、とも言われますが、それによれば私はその瞬間に一人前になったのでしょう。

脳が働きすぎで頭から湯気が出そうでしたが、確かに自分で自分の英語を聞きながら「まあ、凄い!うまいじゃない!」と思ったのも事実です。

これ以外にも悪気の無い人でも、仕事上のルーズさには何回も泣かされました。期限を守らない、書類が不備、依頼した仕事を丸ごと忘れる。指摘すれば「No worries, mate!」とお決まりののオーストラリア節です。

私は迷惑しているのに気にするな、なんてあなたに言われる覚えは無いし、第一あなたが問題を作ったことを気にしなさいよ!と言いたくなるのをぐっとこらえることが多すぎて、心が広くなりました。お金の話では、所得税率が高くて驚きます。私のお給料はそんなに高くはなかったのですが中間所得層に入り、当時の税率は43%でした。

高福祉・高負担だから仕方がないとわかっていても、せっかく働いても税金で半分近くを取られてしまうので、給与明細をみるとがっかりしました。また所得税の他に、家を買うと不動産取得税、またその評価額に応じた住民税も払わなければなりません。アパートメントを購入した場合は管理組合経費もかかります。

転職をするときには、提示された給与の半分が手取り、さらに日本で当たり前のように出る通勤費の支給や扶養手当・児童手当などの各種補助はなく、国民健康保険料は天引きされ、諸々の税金も手取りから支払うことを考えて、応募ポジションを決めることも必要です。

キャリアの面では、私の場合はたまたま最後の職場が日本の総合商社の現地支社でしたから、日本に戻ってからの再就職でも理解を得やすく、すぐに再就職先が見つかりました。

しかし友人の中には現地では誰もが知っている大手企業で働いていたのに、その企業名が日本では知られていないために、どの程度の規模と質の会社で何をしていたのかを理解してもらえず、日本での再就職に苦戦している人もいました。

英語がうまくなった位では、今の日本での就職も簡単ではありません。英語力以外の自分ならではの強みを磨く覚悟も持っている必要があると思います。

オーストラリアへ移住して困ったこと(その対策)

オーストラリアで販売されている衣料品全般が化繊が多く、さらにサイズがなかなか日本人には合いません。特に男性のワイシャツは首回りで合わせると袖丈が長すぎて、袖丈で合わせると首回りが小さすぎるので、持参することをおすすめします。

女性の場合でも骨格がしっかりしたオーストラリア人が着れば様になるものも、私達アジア系が着ると洋服が大きすぎます。私は日本ではMですが、オーストラリアではジュニアサイズまたはSSでした。

日本から持参した服を着てCityを歩いていると、見知らぬアジア系の女性から「急にごめんなさいね。でもあなたの着ている服、とっても素敵。どこで買ったの?教えてもらえない?私も同じようなものが欲しいの」と話しかけられたことが何回もありました。「ごめんね、これは日本から持ってきたのよ」というと「ああ、やっぱり・・・」と残念そうにしていました。

オーストラリアへの移住は資金を確保しておくこと

生活費は賃貸を考えると、敷金・礼金の慣習が無いオーストラリアでも、それなりにかかります。特に家電製品は日本とは電圧が異なるので、大物は現地で購入しなければなりません。これが意外に高額です。配送料も据え付け代も別途かかります。

オーストラリアで安い家電製品を買うと、寿命が短く、また機能が劣ります。例えば冷蔵庫には霜が付きます。日本では「冷蔵庫に霜がつく?」と想像もできないことですが、冷却方法が古いので、定期的に冷蔵庫内の霜をとらなければなりません。それが嫌だったら「Frost Free」、霜がつかない、と書いてあるやや高い冷蔵庫を買うしかありません。

このように思ってもみなかった出費や、日本での状況で考えたらびっくりするような価格でものを買うことを考えると、持ち運べる家電類、例えば電気釜などは海外仕様のものを持参する、またはこだわりを捨てて現地で購入する覚悟を決めて、資金をできるだけ多く用意するしかありません

お金の管理は、私達は当時のシティバンク、今のプレスティア銀行に口座を作り、そこにお金を集中させて、初期の生活費用を現地のATMから引き出していました。

小切手を使える銀行口座の開設は手数料が高額なので、結局最後まで作りませんでした。税金も病院代もほぼすべてがクレジットカードで支払いを済ませられるので、小切手用の口座を無理に開ける必要は無いと思います。

移住前に英語の勉強を!

振り返ってしみじみと思うことは「行く前に英語の勉強をしっかりとしておくこと」です。行ったら何とかなるだろう、というのは学生には通用しても社会人には通用しません。難しい語彙などは後から学べばよいので、まずは中学校の英語文法を出発前に完璧にマスターすることです。

日本人にとってなかなかマスターできない接続詞も中学校の英語文法がしっかりと根付いていれば意外に簡単に法則性を見出せます。就職するためには、やはり現地の言葉で自己PRができることが重要です。

語学力をあげて、またレジュメでしっかりと自分をPRすることも忘れないでください

まとめ

最初から永住権を取得し、移民として暮らすことはオーストラリアのビザ制度上は可能です。ただそのビザは、就労先は確保してくれません。住居の補助もありません。もらえるのは国民健康保険だけです。さらに渡豪2年間は生活保護手当ももらえません。

それまで自己資金で生活をやりくりする覚悟と準備をしましょう。若い単身者であれば、家具類は現地で買い直す方が得だと思います。

家族もいる場合には、意見が分かれるところだと思いますが、私は自分の大切なもの、好きな本、家具類などはお金が許す限り持参することをおすすめします

それらは逆境にある時に、ひと時でも自分の心を慰めてくれるからです。今ではAmazonで日本の本も海外から取り寄せることが可能ですが、配送料が非常に高額になるので、定期的な利用は現実的な選択とは言えません

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