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新卒でフィリピンに渡った私が仕事を見つけるまで

フィリピンの子供

「フィリピン英語留学」という言葉がまだ耳慣れない1990年代後半、私は大学を卒業するとすぐにフィリピンに渡りました。

当時政情も不安で、治安も悪いと言われていたフィリピン。知り合いもおらず、頼れるツテも一切ありません。「なんでフィリピン?」「危ないんじゃない!?」「やめなよ」と周りから散々考え直すよう勧められました。

それでも私がフィリピンに行きたかった理由、そしてフィリピンで仕事を見つけるまでの経緯をご紹介したいと思います。

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目次

フィリピンに興味を持ったきっかけ

飛行機

高校生のころニュージーランドに留学していた私は、授業にもついていけず、友達もできず、ホストファミリーとも上手くいかないみじめな生活を送っていました。

いつも通り学校で1人で過ごしていると、フィリピン人の同級生が「うちに遊びに来ない?」と声をかけてきました。彼女もフィリピンから来たばかりのころは、英語もできずずっと1人だったそうです。

これをきっかけに彼女の家族や友達とも仲良くなり、フィリピン・コミュニティにも顔を出すようになりました。

いつも明るく陽気なフィリピン人

彼女たちはみんなで集まるのが大好き。毎週のように誰かの誕生日パーティー、クリスマス会、新年会などの名目で、歌い、踊り、食べて、笑っていました。

英語が上手な人もいれば、カタコトの人もいます。でも、誰も気にしません。文法が間違っていても、単語の使い方が間違っていても、何の問題もなく会話が進んでいきます。不思議なことにちゃんと理解もし合っているのです。

そして何より、彼女たちといるといつも笑っていられてハッピーでした。おかげでどんどん話すようになった私の英語も上達し、同時に彼女たちが生まれ育った国、フィリピンに興味が湧いてきたのです。

フィリピンに住むことを決断

フィリピンの国旗

その後、日本の大学へ進みましたが、フィリピンへの興味は大きくなるばかりでした。大学2年の時、フィリピン人の子どもの里親となり、現地視察として初めてフィリピンに行きます。

スラム街や貧しい地域を訪ねましたが、私の目に入ってくるのは彼らの笑顔でした。物もお金もなく、生活も大変そうです。でも、彼らにとってそれはそれなのです。貧しさイコール不幸ではないのです。

私にはとても衝撃的でした。物やお金がそんなになくてもノープロブレム、英語がたいして上手くなくてもノープロブレム。楽しく幸せに生きようよ。

日本にいたら気が付かなかったことに気が付きました。そして、卒業したらフィリピンに住もうと決めました

知り合いが誰もいないフィリピンに行くには

フィピリン

フィリピンに行くと決めてから少しずつ情報収集を開始。当時インターネットもまだ今ほど普及していなかったので、国際センターに行ってフィリピン関係の資料やチラシを読み漁りました。

フィリピンに行くとは決めたものの、どうやって実行したらいいのか悩みました。就職活動を蹴ってフィリピン行きを決めたので、親に援助は頼めません。また、予算があまりないため、留学や大きなボランティア団体に申し込むのは無理です。

日系企業などの求人広告も探しましたが、働いたことも、見たこともない会社といきなり雇用契約を結ぶのには抵抗がありました。結局、雇用契約は自分の目で確かめてからの方がいいと考え、求人を探すのはやめました。

日本語教師の募集に応募

とは言え、知り合いが誰もいないフィリピンに一人で行って生活を始めることは容易ではありません。政情不安で治安もあまり良くなかったので、誰か現地で助けてくれる人が必要です。

そして、コツコツと情報収集していくうちに、小さなボランティア団体が経験不問の日本語教師の募集をしているのを見つけました。無償ですが、ホームステイは紹介してもらえます。

「これしかない!」とすぐに応募して、その数か月後にはフィリピンに渡ることになりました。

フィリピンで経験ゼロの日本語教師として働く準備

フィリピンの子供

こうして日本語教師としてフィリピンに行くことになりましたが、日本語を教えた経験など全くありません。

そこで、フィリピンに渡るまでの数か月間、日本語を教えているボランティア団体すべてに電話をし、アシスタントとして働かせてもらえないか頼みました。3か所くらいにOKをもらい、日本語教師の仕事を見せてもらいました。

どの日本語教室でも、中国人、ブラジル人、アメリカ人など母語がそれぞれ違う人たちに、日本語を使って日本語を教えています。その技術を数か月で習得するのはとても無理でした。

でも、完璧じゃなくてもノープロブレムという考え方にすっかり変わっていたので、教える雰囲気だけ覚えて、技術と知識は教えながら学んでいくことにしました。

ノープロブレムではないフィリピンでの現実

ジープニー

フィリピンの首都マニラに着いてからは、フィリピン人の家庭にホームステイをしながら日系の船会社で日本語を教えました。

当然の如く、知識も経験もない私の授業は散々でした。50人ほどいた生徒も日に日に数が減り、最後は一桁になります。日本語クラスは閉鎖寸前。

その上ボランティアなので、お給料はありません。家賃も払わなくてはいけません。所持金は現金30万円。3、4か月の生活費です。この間になんとか就職しないと日本に帰国になってしまいます。

八方塞がりで、さすがにノープロブレムとは思えず悩みました。

フィリピンで広がり続ける人脈

空

ラッキーなことに、私の事情を知った船会社の社長さんが通訳会社を紹介してくれました。そこで通訳、翻訳、日本語教師をしてお給料がもらえるようになります。

そして、仕事を通して知り合った人たちに紹介してもらい、あちこちから仕事を頂けるようにもなりました。

フィリピンでは人脈が最高の武器です。完全に実力不足な私でしたが、とりあえず踏み出すと、何らかの人とのつながりができました。そして、そのつながりはどんどん広がっていきました。

通訳も翻訳もしたことがありませんでした。毎日熱を出すくらい失敗の連続でした。それでも続けていくと人脈はさらに広がり、いろんなチャンスに出会えました

まとめ~笑顔と優しさに助けられたフィリピン生活

私はその後、7年フィリピンに住みました。もちろん、いいことばかりではありませんでした。

最初はノープロブレム精神は素晴らしいと思っていましたが、実際住んでみると、なんでもかんでもノープロブレムにしてしまうフィリピン人たちに「ビッグプロブレムだから!」とキレてしまうこともたびたび。

それでも、いつも陽気でハッピーなフィリピン人と生活していると、普段たいしてハッピーではないことまでハッピーだと思えるのです。

大変なことも多々ありましたが、いつもフィリピン人の笑顔と優しさに助けられた幸せなフィリピン生活でした。

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